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チョコレートの歴史を知ろう - 海を渡って進化するチョコレート

チョコレートは、原材料のカカオが採れる「生産地」から、実際に製造して喫食する「消費国」が遠く離れているという点で、とてもユニークな食べ物です。

チョコレートの歴史を辿ると、なぜ生産地と消費国が異なるのか、謎が解けてきます。カカオの発祥から現在のクラフトチョコレートの成り立ちまで、海を渡って進化するチョコレートの歴史を見ていきましょう。

1. カカオの発祥(紀元前3300年頃・5300年前)

これまでの考古学的証拠から、カカオは4000年前から利用されており、主に中南米のメソアメリカ(メキシコ、ホンジュラス、ベリーズ、グアテマラ)で最初に栽培されたという説が定着していました。

しかし、遺伝学的証拠からは、カカオとその近縁種は南アメリカ大陸の赤道付近で最も多様化していることが示されており、実はこちらがカカオ発祥の地なのではないか、という説もありました。

そして2018年末、世紀の大発見が発表されました。

南米・エクアドルにおいて、マヨ・チンチペ文化で知られ、最古の遺跡となるサンタ・アナ・ラ・フロリダ(Santa Ana-La Florida)遺跡で、カカオを栽培していたことを裏付ける土器が発掘されたのです。

出典:science alert

この土器片の内面より、カカオ特有のデンプン粒と塩基配列を持つDNA、テオブロミンの残留物の3点が発見されました。土器がボトルのような形状をしていることから、この頃からカカオは何らかの形で喫食されていたことが明らかになりました。

この事実により、カカオ発祥の地は5300年前のエクアドルに改められ、そこから世界に広がって行ったという歴史に書き換えられたのです。

2. マヤ・アステカ文明

作物としてカカオが栽培され始めたのは紀元前2000年頃のメソアメリカと言われています。

マヤ文明の母体となったオルメカ文明時代の首都サン・ロレンツォ(San Lorenzo)(現メキシコ)では、テオブロミンの残留物が付着した土器が発見されています。

(左から)ネックレス状の入れ物(Caamaño)、光沢のあるボトル(Pochitoca)、黒と白の縁が丸まったボウル(Tigrillo)といった、保存や調理、提供に用いられたと考えられる器具が一緒に発見されていることから、この頃からカカオを「調理」していたと考えられます。

マヤ文明の象形文字にはカカオを表すものもあり、当時のカカオは宗教や貨幣、薬といった様々な取り入れ方をされていました。貨幣としてのカカオ豆は、20粒で片道の荷物運び、100粒で奴隷一人・・・というように換算されていたようです。

宗教面では、神への捧げ物として、通過儀式(出産や成人、婚礼等)、豊穣祈願等に用いられました。

この絵には国王に捧げられたカカオドリンクが描かれており、マヤ文明でカカオを調理している様子が分かります。泡立っている状態は、特別に調理されたことを示しており、アチョテ(メソアメリカ時代の食紅)を入れて紅くしているそうです。

当時のカカオドリンクは、カカオ豆を火にかけて焙煎し、外皮を取り、石で作られた板(メターテ)と棒(マノ)ですり潰し、水を加えて混ぜてから、肩の高さに置かれた容器と床に置かれたもう一つの容器を用いて、交互に移し替えて泡立つように作られていました。

バニラ、オールスパイス、樹液、はちみつ、チリ、トウモロコシの粉を加える等の工夫もなされており、様々な味わいがあったそうです。カカオは非常に高価なものとして特権階級の人々に限られており、強精・栄養強化の目的でも愛飲されていました。

「チョコレート」の語源には諸説ありますが、アステカのナワトル族の言葉とつながりがあるのでは、と言われています(ナワトル語の「xocolātl」= 苦い水)。他には、マヤ語の「chokol」(熱い)とナワトル語の「atl」(水)が組み合わさったという説や、「kacau」(カカオ)と「atl」(水)で「カカオ水」を意味するという説もあります。

いずれにせよ、「チョコレート」という言葉はマヤ文化とアステカ文化の組み合わせであることが分かっており、歴史的にも現在までその文化が引き継がれていることを示しています。


カカオは現在のチョコレートととは全く異なる形で利用されていたことが分かりますね。ダンデライオン・チョコレートでは、主に中南米のカカオ豆を使用していますが、カカオの発祥地域であるため代々受け継がれてきたカカオ農園があること、またカカオの研究機関も多く、品質の良いカカオ豆を栽培しやすい環境であることも関係しています。

3. ヨーロッパとカカオの出会い(1502年〜)

中南米で利用されていたカカオがヨーロッパに渡ったきっかけは、探検家で航海者のクリストファー・コロンブスでした。

コロンブスは最後の航海で訪れたホンジュラス沖合いのグアナハ島で、カヌーに乗ったマヤ人と遭遇し、このように記しています。

「運搬していた交易品の中に、木の根、穀物、発酵している飲み物と一緒にアーモンドがあった。マヤ人はこのアーモンドを落とすと、自分の目を落としたかのように一生懸命探して拾っていた」

Maricel Presilla(2000年). The New Taste of Chocolate: A Cultural and Natural History of Cacao with Recipes Ten Speed Press

この「アーモンド」こそ、カカオだったのです。

通貨としても利用される程に珍重されていたカカオですが、この時コロンブス本人は航海に熱中しており、興味を持たなかったそうです。

その後、1521年にアステカ帝国を征服したスペイン人、エルナン・コルテスがきっかけとなり、カカオはヨーロッパに広がって行くことになります。

コルテスは征服中にカカオに出会い、カカオは通貨としても、またチョコレートは薬としても価値があることを知り、カカオを「金になる木」として、植民地だったドミニカ共和国、ハイチ、トリニダード・トバゴ、エクアドルなどにおいて、栽培を開始しました。

チョコレート = フランスのイメージがありますが、カカオを最初に持ち込んだヨーロッパの国は、スペインだったのです。スペインでのカカオの最初の記録は1544年、「マヤ人のケクチ族がスペインのフェリペ2世を訪問し、カカオを(飲み物として)献上した」と記されています。

そして1585年には、メキシコのベラクルスからスペインのセビリアにカカオの最初の取引が行われた記述が残っており、植民地からカカオを輸入し、スペインの独占品にしようと試みがなされていました。

4. ヨーロッパでの広がり

長くに渡りスペインが独占していたカカオですが、1606年にイタリアの商人アントニオ・カルレティがカカオの栽培方法と飲料の製造手順を持ち帰ったことで、ようやくヨーロッパへ伝わっていきます。

 

1615年にはスペイン国王の娘アンヌがフランスのルイ13世と結婚し、チョコレート調合士を連れていったことから、フランスでもチョコレートが王族の嗜好品として広まりました。

ヨーロッパ人はカカオの苦味が苦手だったため、中南米での飲み方とは異なり、砂糖やはちみつを入れるようになりました。また、チリの代わりに現地で調達できるシナモンやアニス、ブラックペッパーを使用するようになったとも言われています。当時は砂糖も高級品だったことから、この飲み物は王族・貴族の間で贅沢品として振舞われ、チョコレートは甘い飲み物へと変化を遂げました。

また、甘くなっただけでなく、飲み方にも変化が生まれました。アステカ文明時代は、器から器へと上から勢いよく注ぎ、泡立てていましたが、スペインでは、モリニーヨという攪拌棒と、ショコラティエールと呼ばれるチョコレートポットを使うようになりました。

Xocolatada (Chocolatada), Tamorlan 出典:wikipedia

この絵は18世紀前半のもので、 スペインのバレンシアでのチョコレートパーティーの様子です。モリニーヨの棒を両手で挟み、左右に回転させながら上下させ、ポットの中のチョコレートを泡立て、カップに分けて提供しています。王室の晩餐会では、泡立ったショコラティエールが50個以上も運び込まれたとも記されています。

5. チョコレートの工業化(1730年〜)

1700年代に入ると、産業革命を機にチョコレートにも次々と技術革新が起きます。1775年にイギリスのジェームズ・ワットが開発した蒸気機関の技術を利用し、チョコレートの製造工場が増えたことにより、大量生産と価格の低下が可能になりました。これまで貴族の贅沢品だったチョコレートが庶民まで親しめるようになったのです。

チョコレートの工業化が進む中で誕生した、「チョコレートの4大革命」を説明します。

<チョコレートの4大革命>
 ①カカオバターの抽出

世に広く普及したチョコレートですが、この時はまだザラザラとした食感で、舌触りの悪い飲み物でした。理由は、カカオに含まれる油分(ココアバター)が、水やミルクなどの水分と混ざりにくく分離しやすい状態だったからです。また、発酵による酸の香りも強烈に残っていました。

これを一気に解決したのが、1828年のオランダのヴァン・ホーテンによる技術革新です。今やココアでお馴染みの、あの「ヴァン・ホーテン」ですね。通常カカオ豆には約55%の油分が含まれていますが、ヴァン・ホーテンはココアバターの圧搾機を発明し、カカオからココアバターを絞り出し、油分を約28%程度まで落とすことに成功しました。これをパウダー状にしたものがココアパウダーです。油分が少ないココアパウダーは水分と混ざりやすく、舌触りが良くなりました。

また、カカオ豆をアルカリ処理することにより、酸が中和されて酸味が減少し、マイルドで飲みやすくすることにも成功しました。この製法は「ダッチプロセス」や「ダッチ式」とも言われています。自然派系の食品店舗で見かける「非アルカリ処理」と書かれたココアパウダーは、このダッチプロセスを行っていないので、カカオ本来の味わいが感じやすくなっています。


 ②固形チョコレートの誕生

1847年、イギリスのジョセフ・フライによって最初の固形チョコレートが完成し、ここでチョコレートは飲み物から食べ物に変化します。

これまでのチョコレートは、ココアパウダーを固めただけの「ココアケーキ」に、砂糖と水を加えた飲み物として親しまれていました。ところが、ジョセフ・フライがココアパウダーと砂糖にココアバターを混ぜたところ、常温で固体化するココアバターのお陰でチョコレートが固まり、結果として「食べるチョコレート」が実現したのです。この新しいチョコレートは、"Eating(食べる)"が前に付けられて、当時は”Eating Chocolate”と呼ばれていたそうです。

ジョセフ・フライと家族が経営していたJ. S. Fry & Sonsは、その後1866年にフィリングを詰めたチョコレートも初めて開発し、大手チョコレート会社として成長しました。1919年に同じくイギリスの大手チョコレート会社Cadburyと合併しましたが、Cadburyは2010年に食品メーカーのKraft Foods(現在はMondelēz International)に買収され、工場も閉鎖されてしまいました。

ちなみに、カナダのクラフトチョコレートメーカーSOMA chocolatemakerでは、カカオ豆と砂糖を荒くすり潰して固めた、この時代を再現した”Old School Bar” を販売しています。砂糖もじゃりじゃりと残った、ホロホロとしたチョコレートビスケットのような食感ですが、とても美味しいので機会がありましたらぜひ。


 ③ミルクチョコレートの誕生

出典:Alchetron

1875年には、スイスのダニエル・ペーターがミルクチョコレートの開発に成功します。ミルクチョコレートの開発における最大の難点は、「カカオバター(油分)とミルク(水分)の乳化」でした。カカオバターとミルクの水分が混ざらず分離し、また腐敗しやすいという課題がありました。
ダニエル・ペーターはスイス初のチョコレート会社François-Louis Caillerの娘ファニー・カイエと結婚したことを機に、ミルクチョコレートの開発に乗り出します。これまではダニエル・ペーターの近所に住むアンリ・ネスレの協力の元、ミルクパウダーを共同開発したと言われていましたが、近年広島大学名誉教授の佐藤清隆氏により、ダニエル・ペーターは一人でミルクパウダーを開発し、ミルクチョコレートを作ったことが判明しました。佐藤教授らは、実際に存在した史料を元に牛乳からミルクパウダーを作り、当時のミルクチョコレートを再現することにも成功しています。


 ④なめらかなチョコレートの誕生

出典:science alert

ここまでの歴史で私たちの知る「チョコレート」にかなり近づいてきましたが、一つ足りないものがあります。それは、チョコレートの「なめらかさ」です。

当時のチョコレートはココアパウダーにココアバターや砂糖、ミルクパウダーを混ぜて固めただけのものだったため、ザラザラとしていて、食感が良くありませんでした。

それを解決したのが、日本でもLindtとしてお馴染みの、ルドルフ・リンツです。菓子職人だったルドルフは、なめらかなチョコレートを作るために研究を重ねていましたが、なかなかうまく進みませんでした。ところが、1879年のある夜、チョコレートを入れた機械を稼働したまま帰宅してしまい、週末を挟んだ72時間後に工場に戻ると、なんと自分が思い描いていた艶やかでなめらかなチョコレートを発見したのです(この発見が偶然なのか、意図的なのかは諸説あります)。

この機械は、チョコレートの原材料を加熱しながら攪拌し、練り上げることで、原材料が液状化し混ざり合い、酸味やえぐ味といったオフフレーバー(本来その食品が持つ匂いから逸脱した異臭や変質臭)を揮発させる作用があり、「コンチェ」と名付けられました。リンツが使用していた容器の形がコンチ貝の形に似ていたことから、スペイン語で「貝」を意味する「コンチェ」と名付けたそうですが、現在のチョコレートの製造においても、「コンチング(精錬)」という言葉で使われています。

日本でも店舗展開しているリンツですが、私たちが現在食べている「なめらかなチョコレート」を誕生させ、チョコレートの発展に大きく関わったメーカーの一つです。

こうして、カカオは苦い飲み物から甘い飲み物へ、そして食べ物へと進化し、ミルクチョコレートを始めとした様々な種類のチョコレートが出来るようになりました。

産業革命を機に大量生産にも成功し、それまで貴族の贅沢品だったチョコレートは庶民のお菓子や嗜好品として定着したのでした。

6. アメリカでの広がり

現代におけるチョコレートを語る上で欠かせない、最もマーケットシェアが大きく、クラフトチョコレート・ムーブメントにおいても重要な役割を担うアメリカのチョコレートの歴史にも少し触れておきましょう。

出典:science alert

アメリカで初のチョコレートバーを作ったのは、キスチョコでお馴染みのミルトン・ハーシーで、1894年のことでした。ハーシーは元々キャラメル工場を経営していましたが、展示会でチョコレートの機械と出会ったことがきっかけで、チョコレートの製造に乗り出しました。そして1900年、今でもアメリカでは定番のミルクチョコレートバー(板チョコレート)を発売します。

ハーシーは砂糖とカカオの価格が暴落したのを機に、チョコレートを大量生産化させることに成功しました。さらに、チョコレートのサイズを150gから30〜45g程度まで小さくしたことで、「5セントのチョコレートバー」を実現し、庶民のスナック菓子として定着させました。

当時のチョコレートバーには”MORE SUSTAINING THAN MEAT”(肉より持続力あり)とも書かれており、エネルギー補給の目的でも消費されていました。

この“4 oz chocolate”(113g程度)は今もアメリカ軍用のチョコレートとして活用されているそうです。

アメリカのチョコレートの文脈では、キスチョコの他に忘れてはならない、M&M’sの誕生にも興味深いものがあります。

M&M’sの誕生のきっかけは1930年代。スペイン内戦時に現地を訪れたフォレスト・マースが、兵士たちが「戦時中でも溶けないチョコレート」として食べていた、砂糖でコーティングされたチョコレートに着想を得たそうです。

1940年に帰国後、マースは友人であるブルース・ムリーと共同で、ニュージャージー州に工場を設立します。ブルースはあのHershey‘s社長の息子で、当時はHershey’sのチョコレートを使って製造していたそうです。この商品はマースとムリー、二人の苗字の頭文字である「M」をつなげて「M&M's」(マース&ムリーズ)と名付けられ、翌1941年より本格的に製造を開始しました。

しかし、ムリーは名ばかりで仕事をしなかったため、終戦後にマースは独立。ペットフード業態と共にMarsを設立し、今やHershey‘sとMarsは競合他社になってしまったのです。私たちにとってもアメリカの2大スナックチョコレートとして馴染みのあるキスチョコとM&M’sですが、歴史的にも深いつながりがあったのですね。

7. 日本での広がり

それでは、ここ日本ではチョコレートはどのような発展を遂げていたのでしょうか。実は、日本に最初にチョコレートが伝わったのは江戸時代の長崎でした。

1797年、長崎で有名な遊女町・丸山町の記録「寄合町諸事書上控帳」に、遊女が出島のオランダ人からもらった品として「しょくらあと 六つ」と記されています。これは日本で最古のチョコレートの史料です。

その後1868年、パリ万国博覧会に幕府代表として赴いた徳川昭武が「徳川昭武幕末滞欧日記」に「朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」と記しています。公式な文献としては、1873年にフランスのチョコレート工場を見学した欧米視察派遣特命全権大使だった岩倉使節団が記したもので、「錫紙にて包み、表に石版の彩画などを張りて其美をなす、極上品の菓子なり。此菓子は人の血液に滋養をあたえ、精神を補う功あり」と残されています。

日本初のチョコレートは、1878年東京・両国の米津凮月堂(現在の東京凮月堂)が販売したチョコレートです。ただ、この時は輸入したチョコレートを溶かしたものを加工していました。また、チョコレートは漢字で「貯古齢糖」等と表記されていました。

1899年、森永西洋菓子製造所(現森永製菓)の創業者・森永太一郎がアメリカから帰国し、キャラメルなどのお菓子とともに、チョコレートクリームの製造販売を始めます。これが日本で最初のチョコレートの工業化となりました。

1918年には生産機材を海外から輸入し、技術者を招き、初めてカカオ豆からチョコレートを一貫して製造することに成功します。この史実から、初の国産ミルクチョコレート、そして日本で初めてBean to Bar チョコレートを作ったのは、森永製菓と言えます。

1918年には東京菓子(現明治)もチョコレートの販売を開始します。当時まだ馴染みのなかったチョコレートの機械を導入して生産することは、金銭的にも技術的にも困難が多かったと想像できますが、この企業努力のおかげで私たち日本人も美味しいチョコレートに出会い、楽しめるようになりました。

昭和に入ると、チョコレートの需要は更に高まりましたが、日中戦争や太平洋戦争によって生産が止まってしまいました。1937年に日中戦争が始まると、1940年にはカカオ豆に輸入制限がかかかり、軍需用以外のチョコレートの製造は中止されます。

そんな中、チョコレートの代替品も開発されるようになりました。カカオ豆の代わりにはチューリップや百合の球根など、砂糖の代わりにブドウ糖、ココアバターは植物油で代用し、バニラで風味付けをしていたそうです。

1945年、戦後アメリカ軍が日本に持ち込んだチョコレートをきっかけに、再度チョコレートが普及します。当時の子供たちがアメリカ兵に叫んだ「ギブ・ミー・チョコレート」というフレーズは、歴史の教科書にも残る一文として記されています。

1950年、カカオ豆の輸入も再開されます。2年後には砂糖が自由販売に、そして1960年にはカカオ豆とココアバターの輸入も自由化され、日本のチョコレート業界が進展します。様々な形やフレーバーの展開、ビスケット生地と合わせたものなど、私たちが今でも馴染みのあるチョコレートが多く開発・発売され、日本人のお菓子として定着しました。

8. クラフトチョコレートへの回帰

大量生産された安価な食材が世の中に増えるにつれて、2000年代からクラフトビールやサードウェーブコーヒーのように「原点回帰」を唱える風潮が生まれてきました。生産数が少量になっても、昔ながらの製法やこだわりの素材で作ることを目指すクラフトフードムーブメントの流れにチョコレートも乗る形で、「クラフトチョコレート」という新しい分野が誕生します。

「クラフトチョコレート」自体の始まりは、実は2000年代よりも前に遡り、1995年にアメリカ・サンフランシスコで創立したScharffen Berger(シャーフェン・バーガー)。彼らが一番最初に「スモールバッチ(少量生産)」を敢えて始めたことで、チョコレート業界を変えたとも言われるメーカーです。

シャーフェンバーガーはフランスのベルナシオンで修行し、サンフランシスコに戻り、昔ながらの機械やハンドメイドの機械でチョコレートを作っていました。しかし、2006年にこれまた登場するHersey’sに買収されてしまい、ブランド自体は残っているものの、元々の工場は閉鎖され、商品構成自体は変わってしまいました。
このオチのあるストーリーは、アメリカでクラフトチョコレートの歴史を語る上で、必ずと言っていい程登場しますが、ダンデライオン・チョコレートにとってもシャーフェンバーガーは先駆者的存在として、今でも尊敬されています。

日本でのクラフトチョコレートムーブメントの発祥は、2010年のEmily’s Chocolate OKUSAWA(東京)の誕生に遡ると言われています。エミリーズチョコレートが雑誌に取り上げられたことをきっかけに、2012〜2014年にかけて、今も活躍するクラフトチョコレートメーカーが多く誕生します。ちなみにエミリーズチョコレートは現在も実店舗は持たず、オンラインと催事で購入することができます。

現在、クラフトチョコレートメーカーは全世界で少しずつ数が増え、カカオ豆を購入してチョコレートを作るBean to Bar に留まらず、カカオの木の栽培からチョコレートの製造までを一貫して行うTree to Bar、動物性ミルクを使用しないオルタナティヴ・ミルクチョコレートなど、新たな分野が次々に生まれています。今後も新たなチョコレートの歴史から目が離せません。

9. まとめ

いかがでしたでしょうか?チョコレートには長い長い歴史があること、歴史の中で様々なかたちに変化しながら進化した食べ物ということがお分かりいただけたと思います。

以前お話しした「カカオの品種とチョコレートの ”ちょっと複雑な関係” とは?」でも触れた通り、カカオ・チョコレートは今後も新たな研究結果や発見が生まれる可能性のある、魅力的な食べ物です。
これまでの歴史に想いを馳せながら、未来のチョコレートの可能性にワクワクしながら、日々チョコレートを楽しんでいただけると嬉しいです。

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